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『蒼球のフレニール』
アリル・ラルトのプライベートテイル3

 ティザンからリージェンへ向かう街道にて。

 アリル・ラルトが午睡から目を醒ましてみると、すでに周囲は夕焼け色に染まっていた。
「……!!寝過ごしてしまったのか」
 寝ころんでいた草むらからがばっと身を起こす。頭の上でまとめてある金の髪がそれにあわせて勢い良くはねた。しかし妖精族──ヌーであり、身の丈五十センチもない彼女では、起き上がっても草に阻まれて周りが見渡せなかった。
 立ち上がってみた。すでに地平に落ちかけた、燃えるように赤い大きな太陽が瞳を射る。どこまでも続く、黄昏の世界。
「なんて赤いんだろう……精霊祭の焚き火だって、こんなに赤くはない」
 そして静かだった。アリルはつぶやいて、小さなからだを縮めた。ユゥリは、ミレイユさんは、アルファリアやノーラやフレニール・ハンターの皆は、もう先にリージェンの港町に向けて出発してしまったんだろうか?
 そんなことはないと思いつつも、急に不安が沸き上がってきた。
 こんな小さな子供である私だから、足手まといだと置いていかれてしまったのか?ううん、あの優しいひとたちならそんなことはしない。
 じゃあ、なぜ誰もいないんだ?
 いてもたってもいられず、アリルは駆け出そうとした。
 駆け出そうとして、ふいに足を止める。さっきは気付かなかったが、誰かいる。
 ちょうど逆光になっていて、そのシルエットだけが認められた。背が高い。ヒト族だろうか。
 女性だ。すらりとしていて、そして長く黒い髪。
 それはアリルの──すこしだけ──遠い思い出の中にある女性を思い起こさせた。
「ユレ……シア?」呟くように、ちいさな声で。
「こんにちは、小さなレディ。これはキミの仕業かな?」
 …………ちがう。
「その顔は、違うってカオだね」
 近寄ってきて、アリルの顔をのぞきこむ。
 すべてが茜色にかすむ輝きのなかでも、美しい姿形とその柘榴石のような深紅色の瞳は見分けられた。彼女は、にやりと微笑んでみせる。
「でも、魔女だ?」
 悪戯っぽく。しかし、まるで興味なさそうに。
「あなた、誰だ?」
 ぶしつけな妖精の問いに気を悪くした風もなく。彼女は答えた。
「カトラ。それ以上、名乗る名を持たないのだよ」
 カトラは顔に草花をかたどった化粧をしていた。いや、その左目の下あたりにある蝶。あれだけ、化粧じゃない。
 あれは、蝶の形をしたクシーダだ。魔法使いの証にして、魔女の烙印。

「じゃあ、カトラはここが異世界だっていうのか?」
「違うのかい?私はてっきりお嬢さんのアートにひっぱりこまれたのだと思ったのだけど」
 心外な、という表情をつくってみせるカトラにアリルは戸惑う。
「私の魔法はたしかに「異世界の扉」だけど、まだまだなんだ。扉をみつけるどころか、くぐることだってできやしない」
 アリルは無意識に自分の長い耳に触れていた。異世界が近くにある時、感じ取った時。そこに彼女のクシーダが発現するのだ。
 困っているアリルの様子を見て、カトラはくっくっと笑った。
 さすがにからかわれていたと気付いたアリルが抗議の声を挙げようとした時、急にカトラは神妙な顔になる。アリルは思わずことばを呑み込んでしまった。
「はじまりが唐突ならば、終わりもまた唐突。焦燥より思索を。ほら、時間はたっぷりありそうだ」
 カトラの指した先には、先ほどと変わらない落ちかけた陽。
 いつまでもいつまでも茜の光をなげかけている。
 刻のとどまる地。アリルは、鳥肌が立つのを感じていた。
 かたわらに立つカトラを見上げてみる。すぐそばにいるはずなのに、この人は別の世界にいるのかも。
「時は流れ、戻ることは無い」
 そっと手をのばしかけた時、いきなりカトラが喋り出した。アリルはびっくりして、のばした手をひっこめた。
「しかし、だからといって回帰を願うのはどうかな」
「カトラ、あなたの言ってること、よくわからない」
 またユレシアに逢って、一緒に暮らしたいと願うのはダメなのだろうか?
「いいや、こっちの話。こうやって沈まない夕日を見ていると、永遠をねがう人の気持ちがよくわかると思ってね」
「でも本当はわかりたくないって顔だ。カトラ」
 膝まであるカトラのつややかな黒髪。アリルが精一杯手をのばしてみても、そこまでしか届かない。
「あれ、ばれたかな?」
 また笑う。
「そうだ。アリル嬢にプレゼントをあげよう。受け取ってくれるかな?」
 カトラがどこからともなく取り出した一輪の花。
「……紫のバラか?」
「……蒼いカーネーションなんだけど」
 周囲を満たす茜の光のせいだ。受け取る時、ふわりとカトラのほうから風が来た。涼やかな、月のような香り。
 そうだ。このひとは、まるで月のようだ。蒼い風を纏う、なんて紅い月。
「カトラ。また逢えるか」
「さて。もう二度と逢えないかも知れないね」
 カトラ、本気だ。そうわかって、アリルはちょっとさみしくなった。
 蒼い瞳と紅い瞳が見つめあって、すべてが黄昏の茜の光のなかにぼやけていく……。

「お別れするために、出会うんじゃないんだ」
 右手にしっかり握りしめていた物を見ると、なるほど蒼いカーネーションだった。
 カーネーションを顔のほうにもっていくと、しっとりとした花びらが妖精のちいさなくちびるに触れる。
 左手にもなにかを握っていることに気付いて、寝ころんだまま顔を向けてみると、ユゥリだった。すやすやと気持ちよさそうに眠っている。
 きっと、自分を起こしに来て、そのまま寝てしまったのだろう。アリルは、急に可笑しくなってしまった。
「ユゥリ、起きろー!」
 ころっと寝返るついでに、ユゥリにのしかかる。気付いたユゥリがもがくが、もう遅い。
 幼い笑い声が春の空に弾けた。
 その声を聞きつけて、寝ぼすけな道連れを迎えに、幾人かの人々がそこへ向かっていった。

2000・4・あり

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